学ぶということ(4) | 私、BABYMETALの味方です。

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★今日のベビメタ
本日8月25日は、2016年白ミサ@Zepp名古屋が行われた日DEATH。

日本に黒船が来航し、幕府、薩摩藩、佐賀藩、宇和島藩で蒸気船や反射炉の開発が行われていた頃、欧米はどんな状況だったのか。
ナポレオンの敗退後に行われたウイーン会議(1814-15年)で、イギリス、オーストリア、ロシアなど君主制の大国が自由・民主主義を抑圧するウイーン体制が敷かれていた。
だが、1848年、フランスでは二月革命が起こって第二共和制となり、ナポレオンの甥ルイが大統領となる。これを受けてオーストリア帝国では、三月革命が起こってウイーン体制の立役者だった宰相メッテルニヒが失脚。二院制と納税額による制限選挙を定めた憲法と一院制・普通選挙を求める民衆との間で混乱が広がり、傘下のハンガリー王国、チェコ王国ではオーストリアの影響下から脱しようとして革命が起きるが、結局はオーストリア軍に鎮圧される。
だが、プロイセン王国は、国王大権を温存する欽定憲法で国民を統合することに成功し、1852年の第一次デンマーク戦争にも勝利する。
この年、フランスではルイがクーデターを起こし、ナポレオン3世として第二帝政が始まる。フランス帝国は植民地を広げ最大版図に達する。
こうした大陸の混乱とは距離を置き、インド、インドシナ半島、清に植民地を置き、オーストラリア、カナダなどと大英連邦を組んでいたイギリスは、ロンドンのハイドパークで万国博を行なう。だが、クリミア半島でロシアとオスマントルコとの間で緊張が高まると、イギリスはフランスとともにオスマントルコ側につき、ロシアと戦うことになる。これが1853年に起こったクリミア戦争である。
戦闘はロシア軍の装備の乏しさや指揮官の能力不足などによって、英仏土同盟軍の有利に進んだが、イギリスでは戦費の過剰な負担が原因で財政が破綻、アバディーン内閣が総辞職する。それを機に1856年には清でアロー号事件、インドではセポイの乱が起こる。
とはいえ、イギリス、フランスの植民地からあがる収益は莫大で、1861年にはロンドンで第二回万国博が、1867年にはパリで万国博が行われる。
その一方、かつてヨーロッパの大半を支配したハプスブルグ家のオーストリアの力は低下し、鉄血宰相ビスマルクを擁した新興国プロイセン王国が、第二次デンマーク戦争(1864年)、普墺戦争(1866年)を戦い抜いて、ドイツ帝国となっていく。


要するに1850年代~60年代のヨーロッパは、君主制と共和制、欽定憲法と共和憲法、二院制と一院制、制限選挙と普通選挙をめぐる体制変革の時代であったのだ。
一方、1814年にイギリスから独立したアメリカでは、西へ西へとネイティブ・アメリカンを駆逐して「フロンティア」を広げ、1846年~49年の米墨戦争でカリフォルニア、ネバダ、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミング、コロラドを獲得、1849年にはカリフォルニアでゴールドラッシュが起こる。さらに「新たなフロンティア」として、太平洋へと侵攻する中で到達したのが日本だった。
1853年に日米和親条約、1858年に日米修好通商条約を締結したが、本国では、南北の対立が深まっていた。
選挙によって選ばれる大統領=共和制、民衆の革命権と基本的人権を認めた憲法、二院制、国会議員の普通・間接選挙制というヨーロッパでは最も革新的な体制だったアメリカだが、足元には、アフリカから強制連行してきた黒人奴隷という大問題を抱えていたのだ。
奴隷制の存続を求める南部の農業州は、1860年にサウスカロライナ州、1861年にはミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州、バージニア州、アーカンソー州、テネシー州、ノースカロライナ州が合衆国から離脱し、アメリカ連合国(CSA)を形成する。北部でリンカーンが大統領に選出されると南北戦争が始まり1865年まで続く。
つまり、アメリカは内戦状態であり、日本を開国させたとはいえ、植民地化するほどの余裕はなかったのである。
さて、日本が明治維新へと大きく体制を変革したのは、19世紀初頭の欧米列強が、アジア各地を植民地化していることを脅威に感じたからに他ならない。
当初、「異国船打払令」(1825年)などで鎖国体制を守ろうとした幕府や、「尊王攘夷」で外国人を排除しようとした雄藩も、「敵」の強大さに触れると、彼らの文明を学ばねばならないことに気づく。
1862年、日英修好通商条約に従って横浜に在留していた英国人四人が、薩摩藩主島津久光の行列の前を横切ったため、警固の武士たちが、一人を斬り殺し二人を負傷させるという「生麦事件」が起こる。


イギリス代理公使のジョン・ニールは幕府に対して、10万ポンドの賠償金と犯人の公開処刑を求めるが、薩摩藩はこれを拒否。
すると、翌1863年8月、フリゲート艦ユーライアス(3125t/400HP)、コルベット艦パール(2187t/400HP)、スループ艦アーガス(1630t/300HP)およびパーシュース(1365t/300HP)に700t級の砲艦三隻を加えた七隻のイギリス艦隊が、犯人の引き渡しを求めて鹿児島湾に現れた。
薩摩藩は鹿児島城内での交渉を提案するが、イギリス側はこれを拒否し、湾内にいた薩摩藩の輸送艦天祐丸(746t/100HP)、白鳳丸(532t/120HP)、青鷹丸(492t/90HP)の三隻を拿捕して、乗船していた五代友厚や寺島宗則らを捕虜とする。これらの船は、島津斉彬が中心となって開発した国産蒸気船ではなく、その後、イギリス、アメリカ、ドイツから購入した鉄製のスクリュー式蒸気船であるが、イギリス艦隊とはけた違いに小さい。
だが、これを海賊行為と受け取った薩摩藩は、天保山砲台からイギリス艦隊に激しい砲撃を加えた。イギリス艦隊も応戦し、激しい戦闘となる。鹿児島城下北部が焼かれたが、幕府から得た賠償金を積んだ旗艦ユーライアスが撃沈の危機にさらされ、イギリス軍の死者が60名を超えるに至って、イギリス艦隊は攻撃をあきらめ、鹿児島湾から退去した。


戦後、横浜のイギリス公使館で講和会議が開かれ、薩摩藩は幕府から借用した2万5000ポンドを斬られた者の「妻子養育費」としてイギリスに支払うことで和解した。
大名行列の前を横切れば斬るという「日本の伝統」を貫き通し、戦闘となっても怯まない薩摩藩の毅然とした姿勢は、結局イギリス人に高く評価された。
一時イギリスの捕虜となり、長崎のトーマス・グラバーに保護されていた五代友厚は、米・海産物などを上海に輸出し、これによって得た利益で製糖機械を購入し、砂糖販売の利益で、イギリスに留学生を派遣して、学校・病院・化学・印刷・鉄道・電話施設など産業革命の技術を学ばせ、併せて、視察員が軍艦、大砲、紡績機械を買い付けるという「富国強兵」の上申書を藩主に提出した。
1865年、薩摩藩は幕府の目を盗む形で、15名の留学生をイギリスに派遣する。五代友厚が引率者となったが、その中には、のちに初代文部大臣となる森有礼がいた。
(つづく)